Archive for the ‘社長ブログ’ Category
志 ~こころざし~
先月の話だが、高校の同級生と会食をする機会があった。
卒業以来とは言わないが、数十年ぶりに会った彼は、相変わらず天然パーマの短い髪形で、私に微笑みかけてくれた。
彼は沖縄で耳鼻咽喉科の医院を経営している院長先生だ。今回、たまたま久留米で学会があるという事で来久していたのだが、当日の連絡という事で、とるものもとりあえず駆けつけたのであった。
久々の再会で、楽しいひとときを過ごしたわけだが、彼が私に対してしきりと頼んできたのが、「一度会社(工場)を見せてくれ」という事であった。そしてその理由を聞いて感心した。
彼がのたまうには、病院経営と企業経営は共通する課題があるはずだと。お前の会社もそれだけ長く続いているという事(一応70年は経っている(;^_^A)は、なにかノウハウがあるに違いない。自分はそれを現場で感じてみたい。そして、自分の病院で実践してみたい、と。
耳鼻咽喉科を創設して5年くらいと言っていたが、何という意欲的な発想であろうか!
しかも、もう50代の後半に差し掛かっているというのに、このバイタリティには本当に刺激された。
さらに、彼は語った。
自分たち病院の世界は特殊な世界で、極端に言うと、1日あたりの患者数をいかに増やすかにしのぎを削っているフシがあるという。
早い患者は、診療の時間が3分とかザラで、待ち時間の方がはるかに長い。
そんな現状を何とか打破しようと、自分は患者さんひとりひとりの診療に、充分時間をかけて、相手が納得いくまで説明をし、安心して帰っていただくように努力しているというのだ。
そして、将来自分のような考えを持ったドクターをひとりでも増やすことが、自分の夢だと語ってくれた。
素晴らしい志だと思う。
私達は、ついつい現状に甘んじてしまう。その方が楽だからだ。
しかし、「こうした方がもっといい」というような革新的な考えや方法を思いついたら、躊躇なく挑戦することが大事であると、あらためて彼に教えられた気がした。
そのことを教えてくれた同級生に心から有難うと言いたい。
納車神事
営業車などの新車が納車されるときに「神事」を執り行っている会社は、どのくらいあるかわからないが、弊社は毎回、簡易的な神事を実施している。
ひとつには、運転手の身の安全と、交通ルールをしっかり守って、人様にご迷惑のかからないような運転を心がけましょうという事がある。
また、当然ながら「中央製袋」という看板を背負って公道を走るわけなので、よもや「お前のとこの車にあおられた」などのご指摘を受けることのないよう、弊社社員としての品格を保ちながら、安全運転・思いやり運転をしましょう。というようなこともある。
さらに、営業車やトラックは、仕事には欠かせない道具(アイテム)なので、丁寧に扱い、掃除もこまめにして、室内・室外をきれいに保ちましょうというお願いもする。
今回、この「道具」という表現を言い換えて「パートナー(相棒)」として、与えられた車をいたわり、早めのオイル交換やタイヤ交換、あるいはライトの点検等、常に気にかけて乗ってもらいたいというようなことをお願いした。
車もどんどん進化して、電気で走り、自動運転になったり、音声でいろんなことをしゃべってくれたりで、コンピュータ制御の部分が増えてきた。
しかし、それを操っているのはあくまで人間であり、その責任は運転手にあると思うわけで、その意味では、新車が納車されたときに「神事」をやり、いりこや塩でお清めをし、ブレーキにお神酒をかけて「頼んだぞ」と声を掛けてやるのも、まんざら無意味ではあるまい。
1を聞いて10を知る
よほどの天才か、もしくは修練を積んだ努力家でない限り、1を聞いて10を知ることは不可能である。
ましてや、新入社員で最初からこんな社員がいたら、教育など不要だ。
上司が部下に出す指示・命令に対して、部下がその指示を何とかやり遂げようとするとき、上司の意向を少しでもくみ取ろうとすることは、とても前向きで、素晴らしい心構えだと思う。
その日々の努力によって、彼らは成長し、1を聞いて1.1とか1.2ができるようになる。
たとえそれが、指示した上司にとって、ほとんどわからないような小さな「0.1」であっても、気付く人は必ずいる。
逆に、1を聞いて、0.9しかできなかったときに、指示した上司は何というだろうか?
たぶん、目ざとく、足りない「-0.1」を指摘し、鬼の首を取ったかのようなお叱りを受けるのが、よくあるパターンだ。
ここまではまだ許そう。
なんせ、人間の成長過程にはよくある出来事だし、新入社員の頃はそうやって叱られて育つものだ。
だが、どうしても許せないことがある。
1を聞いて2や3を目指そうとしている部下に対して、その方向性が違う(指示した結果のイメージが違う)ことを理由に「全否定」し、挙句の果てには「余計なことはするな!自分が指示したことだけすればいいんだ!
」と叱りつける上司が存在することだ。
これは、明らかに、部下が自ら一生懸命育とうとする大切な「芽」を摘むことに等しい。
なぜなら、一度そんな風に上司から叱られた部下は、もう2度と1を聞いて10を知ろうとはしないからだ。
「言われたこと以上のことは絶対にするまい。せっかく気を利かせたつもりでも叱られたら損だから。」と考えるだろう。
かくして、ひとりの有望な社員の人生は、全くつまらないものへとなるかもしれないし、その上司のひと言のせいで、会社の損失は計り知れない。
たぶん、私がやらなければならないことは、こういった上司をつくらない社風をつくること。
よく言われていることだが、上司は部下を選べるが、部下は上司を選べない。
まさに、部下の運命を握っているのは、日々対面している上司なのである。
自分自身を含め、このことをしっかりと心に留めた言動をしなければいけないと思う今日この頃である。
当社の経営計画書にも載せているが、ふと中村文昭さんの言葉を思い浮かんだ。
「頼まれごとは試されごと」
頼んだ人の予測を上回るレベルを目指すことが、成長の第1歩だ!
たとえそれが見当違いなことであっても、彼が頼まれてもいないことにチャレンジすることの意味を考えよう。
頼まれた人に喜んでもらおう、有難がってもらおうという一心で、彼は
頼まれもしないことに時間をかけて、あなたのためだけに行動するのだから・・・
浅井の一本桜
今年は、桜の開花が前倒しになっているということで、先日、比較的近場に位置する「浅井の一本桜」の夜桜見物に出掛けた。
実は、近場という事もあり、今まで一度も訪れたことがなかった。
予想以上の見事な老木。
前日は、3分咲きくらいだったらしいが、訪れた当日は、ほぼ満開に近い勢い(実際は七、八分咲き)で、咲き誇っていた。(ちょうどライトアップ開始当日だった)
老木の素晴らしさもさることながら、小生が感心したのは、地域住民の方たちの、この老木に対する深い愛情だ。
現地に向かうには、複雑な山道を通っていかなければならず、草野線からの入口はもちろん、駐車場へ行きつくまでの要所要所に地元のボランティアの方たちが親切に道案内をしてくれる。
道が狭い為に、行き帰りの道を変えて、一方通行で工夫しているので、割とスムーズに駐車場までたどりつく。
駐車場に入ってからも、整理の方が何人もいて、キビキビと誘導していた。見ていてとても気持ちがいい。よく見ると、20代の若い人たちから80代のお年寄りの方まで、心をひとつにして一緒になって動いているのだ。
この1本の老木のために。
日本人の心意気と言えば大げさかもしれないが、この一本の老木を守っていこうとする彼らの「支える美学」を感じた。
そして、この老木と対面した時に「なるほど」と思った。
村の住民たちの愛情を一身に受けて、誇らしげに咲き誇る山桜。
近づいてみると、何本もの支柱に支えられて、樹齢100有余年の年月を生き抜いてきた雄姿が、圧倒的な迫力で語りかけてくる。
たまたまこの日は、ライトアップに加えて、満月のあかりにも映え、幻想的な雰囲気をかもし出していた。
世界中には多くのパワースポットがあるのだろうが、こんなに身近に、こんなにも素晴らしいパワースポットがあろうとは、恥ずかしながら今頃気が付いた次第である。
来年も必ず見に行こう。
LEGOの教訓
11/6の読売新聞のコラムで、デンマークのレゴ社(玩具会社)のエピソードが載っていた。
個人の木工所の時代からだと約1世紀前から続いている老舗企業である。
この会社が2000年代に経営危機に陥った。
その原因は、特許切れやテレビゲームの登場、あるいは当時の経営者による「脱ブロック」方針による多角経営の失敗等、多数挙げられている。
その中で、設立当時の「創業の精神」が忘れられていたことも原因のひとつらしい。
ここに興味深いエピソードがある。
木製おもちゃのアヒルのニス塗りを通常3回から2回に減らし、コスト削減したと自慢する息子に、創業者の父親が怒った。
既に出荷された商品を鉄道の駅まで取りに行き、やり直させたという。
父親としては「何(誰)のためにおもちゃを作っているのか?」という「創業の精神」を息子に教えたかったのではないだろうか。
不振にあえぐ経営陣は「子どもたちに最高のものを」という創業当時のレゴ社の理念こそが目指すべき方向を示していると気づいた。
その後、レゴ社はあっという間にV字回復を遂げ、世界最大の玩具メーカーに返り咲いた。
この記事を読んで、ものづくりの世界において「顧客に喜んでもらう製品をつくる」というごく当たり前のことなんだけど、大会社でさえ忘れてしまうことがあるという恐ろしい経営の落とし穴が潜んでいると思った。
最近では、神戸製鋼の品質偽装問題、日産やスバルの無資格検査問題等、品質に直接かかわる事件が頻繁に起こっている。
先日はカップ麺用の乾燥チャーシューを、自社の設備改修の間、製造許可のない施設で加工していた会社に警察の手が入った。
これらは、皆、確信犯だ。
顧客の事などこれっぽっちも考えず、我が事を優先するわがまま経営といっても過言ではないと思うがどうだろうか。
人のふり見て我がふり直せとはよく言ったもので、もしかすると当社にもそういった「悪魔のささやき」があるかもしれない。
急がば回れ、楽そうな道や儲かりそうな道には、たいがい落とし穴がある。
★We are committed to quality customer satisfaction.
(当社は、お客様に最高の品質をお届けする事に熱心に取り組んでいます。)
スカッとジャパンと正義
フジテレビ系の「スカッとジャパン」がおもしろい。
笹野高史演じる「スカッとばあちゃん」や木下ほうかの「イヤミ課長」、「ケチケチ母ちゃんシリーズ」など、楽しいキャラクターが豊富に出てきて、トンチの効いた切り返しで「スカッと」させてくれる番組だ。
その中でも私が特に気に入っているのは「スカッとばあちゃん」。
日頃、私たちが言いたくても言えないことを、堂々とウイットを効かせた正論で畳みかける様は何とも言えず爽快である。
私たちは、心のどこかで、自分勝手でムカつく人たちを成敗してくれる「正義の味方」を求めているような気がする。
だからこそ、このような番組が人気を博しているのだ。
よく言われることだが、最近は近所の大人が、よその子供たちが悪いことや危ないことをした時に、注意をしたり、場合によっては手を出したりすることがなくなった。
今は、よその子供を叩こうもんなら、それがどんなに正当な理由であっても、親から訴えられたりする時代だ。
ほとんどの人たちは、知らないふりか無関心を決め込んでいるのが現状であろう。
ちょっと正義感の強い人なら、逆にストレスを感じる時代なのかもしれない。
親や教師あるいは近所のおばちゃんやおじちゃんたちから、まともな教育や指導を受けずに大人になった人たちは本当に不幸だと思う。
先日、久しぶりに故鳩山邦夫氏をTVで拝見した。
30年前に起こった東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯である宮崎勤の死刑執行人としてだ。この執行は、通常死刑確定から8年と言われている執行実施を、2年4ヶ月という大幅に早めたスピード執行となった。
私は生前ご本人と会話させていただいたことがあるが、このことは彼の並々ならぬ「正義」に対する気持ちを象徴する出来事だったと思う。
ひとことでいうと「悪は断固成敗する!」的な思想を一貫してお持ちだった。
こういった気骨のある人たちが、堂々と正論が言える世の中を「スカッとジャパン」が示唆していると考えるのは大げさだろうか。
ミスドの鉛筆混入問題
昨日、ミスタードーナツの名古屋市内の店舗で、異物混入が発覚した。
ネットの記事を見ると、何らかの理由で鉛筆がミキサーにかけられバラバラになった状態でドーナツの生地に混入した可能性が高いと報じている。
「ポン・デ・リング」を購入した客2人から「ピンク色の木片が入っていた」などと連絡があったらしい。
これを受けて、そこの経営会社は販売済みのドーナツ217個を自主回収することを決めたという。
しかし、現実問題としてこの217個のドーナツって果たして回収できるものなのか?普通、私たちが購入するドーナツは、そのほとんどがその日のうちにはそれぞれのおなかの中に納まっているのではないか?
どれだけの回収ができたのか、結果も教えていただきたいものだ。
もっとも、私が問題視しているのはこの部分ではない。
今回、ショップを経営する会社の社名も公表されているが、では「ミスタードーナツ」というブランドを掲げて経営しているにもかかわらず、ミスドを運営しているダスキンの責任は全くないのか?ということが気にかかる。
実際、ミスドやダスキンのホームページには、今回の異物混入に対するコメントは一つもない。FC制での経営はそれぞれの会社に任せているということで、素知らぬ顔を決め込んでいるのだろうか?
時間がたてば何らかのコメントがあるのかもしれないが、現時点では「知らぬふり」。せめてショップの苦境に手を差し伸べるくらいはやってほしいものだ。
最近のダスキンの経営方針をみると、今年2月に、2020年度までに『ミスタードーナツ』の約4割に相当する500店でドーナツの店内調理をやめると発表していた。
ただ、ほんの2年前には、売りである「できたて」をアピールするために、調理の様子が見えるように店舗の改装を進めていた。
この短期間での方針の転換をみても、ダスキンの苦悩がうかがえる。
かたやコンビニがドーナツ販売に乗り出しており、ミスドの存在価値は、やはり「手づくり・できたて」にあるのではないかと、個人的には思うのである。
そんな中での今回の事件である。
今回の異物混入を機に「店内調理をやめる」ということではなく、あえて「店内調理をやるために徹底的に環境やシステムを見直して、顧客の信頼回復を目指していく」という決断をされることを心より願っている。
当社では、「経営計画書」という小冊子を毎年作成しているが、その中に「雨降らずして、地固まらず」というフレーズがある。「雨降って地固まる」という言葉とは少しニュアンスを違えている。雨が降ってこそ固まる地もある。
ダスキンさんには、是非この一店舗の苦境を自分自身の事として真剣にとらえ、今後の業績回復、そして躍進につなげて頂きたい。
今回の九州豪雨について(経過及び御礼)
思い返せば「あの時の雲が」というような思い当たることがある。
2017年7月5日(水)13:00前後、私は久留米市内での用件を済ませ、田主丸町の本社に向かっていた。その時に「おや?」と思ったのは、北の空が真っ黒になっており、あのへんは大雨になっているなという事は、容易に想像できた。その時は、あの雲がこっち方面に来ると、かなりまとまった雨が降るのかなと思ったくらいであった。
しかし、まさかここまでの大きな災害になろうとは、夢にも思わなかった。
朝倉市、東峰村、日田市を中心とする一帯を襲った豪雨は、専門家によると、同じ場所に積乱雲が次々に発生する「バックビルディング」と呼ばれる現象によって、大雨をもたらす「線状降水帯」が長時間維持されて起きたと発表された。
7月9日現在で、18名もの尊い命が奪われており、行方不明の方、場所によってはまだ孤立している地域もある。また、避難所での生活を余儀なくされている方も、未だに今回の災難を、信じがたい思いでおられることだろう。
お亡くなりになられた方のご冥福を心からお祈りするとともに、被災された多くの方々に対してお見舞い申し上げます。
そして、これ以上、犠牲者が増えないことを願わずにはいられません。
当社の位置する田主丸町は、幸いにも大きな被害はなかったが、被災した朝倉市は隣町であり、甚大な被害が報道された比良松中学校のすぐそばの朝倉ICまでは、車で10分足らずという近い場所にある。
社員の中には、朝倉地区、杷木地区から通勤してくる者もいたため、少なからず被災した者がいる。彼らに対しては、現在、出来得る限りのバックアップをさせて頂いているところだ。
御礼が遅くなりましたが、今回の記録的豪雨に関して、電話やメールなどでご心配頂いた、たくさんのお取引先の皆様に、心より御礼申し上げます。今後、土砂崩れなどの2次災害も予想されておりますし、梅雨前線もまだまだ活発に動いているようですので、気をしっかり持って、対処して参りますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
顧客との関係性
先日、大変嬉しい事があった。
それは当社の、ある営業マンのことだ。
彼は、12年間に渡ってある地区の担当をしていたが、この4月より担当交代となった。
今回、その引継の際に、主力のひとつであるお得意先から送別会をさせてほしいとの申し出があり、そのご厚意に甘えさせていただいた。
通常、得意先の担当者の移動で、お世話になったお礼ということで、私たちが送別会を開催させていただくことはよくあるが、得意先からの申し出で、1営業マンの送別会を開いていただくことはなかなかない。
そういう意味で、今回の件は異例の事であり、裏を返せば、彼がこの地区を12年間担当した中で、いかに得意先とのいい関係を築いてきたのかという事が推測される。
営業マン冥利に尽きるとはこのことではないだろうか。
本人としても、今回の貴重な体験が、今後の営業活動の大きなモチベーションに繋がったことと思う。
当社の経営計画書に照らし合わせてみると、「コマツ式」顧客との関係性7段階レベル(小松製作所の坂根元社長が提唱)の中の②のレベルに近いのではないか。
先方が、彼を通して、当社をいかに大事に思っていただいているのかを痛感し、と同時に、その期待に今後も応えていかなければならないという責任をあらためて感じたところだ。
もちろん、今回のことは彼ひとりの力ではない。
工場や業務部、あるいは委託先のバックアップや、歴代の営業担当がコツコツと、いい関係を築き続けてきたことで、相手先から感謝され、頼りにされてきたことは間違いないだろう。そのことを忘れることなく、今後も謙虚な気持ちで、新たな担当先でも、得意先との素晴らしいパートナー関係を築いてもらいたいと思う。
泥打ち祭り
先日、福岡県朝倉市の阿蘇神社で「泥打ち祭り」なるものが開催されたというニュースを、新聞で知った。
白い衣装に投げつけられた泥の付き具合で農作物の豊凶を占うらしい。
300年以上続くとされる伝統行事で、白装束の「代宮司」に、地元の子供たちが水田から集めた泥を、寄ってたかって投げつけるというもの。
この日は小雨だったこともあり、白装束の白い部分が全くなくなるほどたくさんの泥がつき、豊作間違いなしとのこと(#^^#)
こういった「五穀豊穣」を祈願するお祭りは、全国に無数にある。
おしろいの顔の付き具合で来年の「作柄」を占う「おしろい祭り」も朝倉だったか。
久留米大善寺町の「鬼夜」も、青森県で米を根性食いする祭りも、秋田県の「なまはげ」も、皆、五穀豊穣祈願である。
私たち日本人は、農耕民族であるがゆえに、畑を耕し野菜を育て、稲を植え米を栽培して、その収穫で食を確保してきた。
だからこそ、こういったお祭りは長く続いているわけで、決して風化することなく、実態を伴った風習として、農業に従事する方たちの希望と力の元であってほしい。
日本の農業が、国の礎として、衰退することなく存続発展することを願ってやまない。
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